大乗仏教より小乗仏教の方がただしい?なんで

Writer: admin Type: regalmach Date: 2019-01-07 00:00
大乗仏教より小乗仏教の方がただしい?なんでかっていうと、そもそも人が人を救うのは不可能であり、そんなことをできるという人は疑わしいと思うもの。対して、自分一人を救うというのは可能だから。自分が救われれば、他人にもその救われる方法を教えるだけでいい。上から目線で、「あなたを救ってやる」と言われても、納得できる人は少ないはず。自分の人生、自分を救うだけでいい。という理論です。共感、異論、ともに待っています。共感した0###大乗の発想は逆で、自分を救うには他人を利することでしか成し得ない それが菩薩の道 って考え方です。自分を救うことだけ考えて、孤独に修行しても なんにもならないよ って考え方です。ナイス0
###ありがとう。###悟りの本質的な部分に、あなたを救ってあげるんだよという意識があるのは論外です。小乗でも大乗でもそれは同じです。人を救う行為が自然体であるというのが仏教の目指すべき方向です。ナイス0
###救うって、何のことを言っているのか、さっぱりわからない。ナイス0
###小乗は個の完成を目指しますが、個々が強く念じている事は早く完成させて、全ての魂の救済にあたりたい、という事です。それが瞑想方法の中に組み込まれています。実質に救いたいからこそ完成が必要、逆に言えば、完成が無い者の言葉や行動には瑕疵があり、そのような者には何人たりとも救えない、とするのです。確かに、遠回りのようで実は近道ってあるじゃないですか。足元に近づく虫を平気で踏み潰しておいて、題目念仏さえ唱えてりゃ良いのだではなく、何も唱えない代わりに自分は決して踏み潰さないと誓い実行する方が完成に近いし尊いのです。これは単に戒律を守るかどうかに過ぎないのですが、踏み潰される生き物側から見れば、どちらが自分にとって有り難いのか。そう言う事です。ナイス0
###正に上座部(初期仏教の信奉者は小乗とは名乗りません)思想だと思います。ただ「自分だけを救うだけでいい」というのは我執であって、無我思想とも違いますね。それは仏教ではないと思います。本当の無我の境地は全ての生命との繋がりを感じ取ることだと思います。釈尊は様々な精舎を説法して廻り、弟子たちも伝道に出ていたはずです。慈悲といわれる生命の繋がりを感じる心があったからだと思います。それに一人悟りの集団だとすぐに滅んでしまいます。精進と救済(縁付)なくして宗教の維持はできないはずです。また、救済行に悟りの縁があったのだと思います。人に伝えようとする時が一番教えが身につくようです。ナイス0
###>そもそも人が人を救うのは不可能であり、そんなことをできるという人は疑わしいと思うもの。いや、精神的のみならず物質的にも救う感じですね。たとえば行基菩薩は、道や橋を作ったり、弘法大師はため池を作ったりされましたけれど、それも人々を救うことになります。たとえば、行基菩薩は、布施屋という貧しい方向けの無料宿泊所を全国にたくさん作ったのですが、あなたが貧しい旅人だとして、今日も野宿か…と落ち込んでいたときに、布施屋があったら、「上から目線で布施屋なんか作りやがって!」って思われますか?あと、川を越える時に、上から目線で橋なんて作りやがって!って橋を渡らずに(仏の慈悲にすがらずに)濡れますか?>自分が救われれば、他人にもその救われる方法を教えるだけでいい。これは正しいですよ。自分を救えない人に人を救うことは不可能です。救うべき世の中の第一号は自分自身だと深見東州が「絶対運」という本で言ってましたけど、大乗仏教は、もちろん、自分自身は小乗的な教えにより救われているという前提に端を発します。ナイス0

 

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