文学の論文で参考文献がほとんど一次資料しか

Writer: admin Type: regalmach Date: 2019-01-11 00:00
文学の論文で参考文献がほとんど一次資料しか無いものが結構ありますがいいんでしょうか?(あったとしても、論じるテーマに直接関係が無い)それもちゃんとどこぞかの大学の教授が書いたものです。大体10ページもない論文でしたが、ネットで見つけたものです。論文にはそれを理論づける参考文献が大事と聞いたんですが、これはいいんでしょうか?教授はその名目から多大な知識が保証されてるから許されるんでしょうか?共感した0###Q:文学の論文で参考文献がほとんど一次資料しか無いものが結構ありますがいいんでしょうか?A:先行研究がほとんどないものや分野を論じるなら、やむをえないでしょう。ナイス0
###学術論文で先行研究のレビューをする目的は、自分のオリジナリティと立ち位置を明確にするためです。「外国人や他分野の研究者の成果」に言及しないで(先行研究にあげないで)、それと同じ論説を書けば、文学以外の他の社会科学では、抹殺されます。文学は科学の段階になっていないため、あるいはモラルがないため、先行研究に言及しないで、それと実質同じ論説を書くという、ことが行われることがあるようです。しかし、参考文献が一次資料だけだったとしても、オリジナリティがないかどうかは、それだけでは分かりません。同じ説を唱えている、論文を探し出すことができれば、剽窃と証明できます。
###学術論文で参考文献を引用する主たる目的は他説と自説の違いを明瞭にするため。既に他人が似た説を唱えているなら引用して違いを明らかにしなくてはならない。それをやらないと剽窃を疑われる。安田尚道氏が「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」(国語学 2003.04)で橋本進吉の上代特殊仮名遣いの「再発見」が実は本居宣長の弟子の石塚龍麿の著作の盗用の疑いがあると述べている。橋本進吉は石塚龍麿を引用して違いを明らかにすべきだった。しかし違いは殆どない。また再発見とも言えない。安田氏が述べるように橋本進吉は石塚龍麿の著書を研究対象としていた。百歩譲って知らなかったとしても文献が既にある以上橋本進吉に発見者の名誉はない。文学の論文の場合大抵同じ説を過去に唱えた人がいる。大先生(政治力の意味で)が他の研究者の過去の論文と殆ど同じものを自分の論文として発表することは国文学の世界では珍しくない。「お前は盗んだろう」などと言うと生きて行くのが苦しくなる閉じた世界。だから剽窃されても我慢する。安田氏の論文だって橋本進吉から直接指導を受けた弟子たちが生きていたら発表できなかっただろう。人文学では外国人や他分野の研究者の成果を盗用しても不問とされるらしい。あちこちで引用される大先生の説が実は外国人研究者が以前に唱えていたものだという例を知っている。外国人や他分野の研究者は彼らの世界では存在しないことになっているのだろう。そういうことをやっているから文学部を廃止せよと言われる。ナイス0
###昔、新批評という批評運動が流行りました。作品は一個の完成された有機体であって、ちょうど親が成人した子供に口出ししないように、いまさら作家の意図とかとは関係なく、作品それ自体を鑑賞する、という批評運動です。そういう観点に立てば、まさに一次資料だけあれば事足りるわけです。Wikipediaニュー・クリティシズム(New Criticism)は、20世紀の英米で行われた文学批評の方法。 作品を社会的、歴史的文脈から切り離し、また作者の伝記的事実と結びつけることをせず、純粋に作品そのものに即して論じようとした。1920年代から、英国のT・E・ヒューム、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、ウィリアム・エンプソン、I・A・リチャーズらが、米国ではアレン・テイト、ジョン・クロウ・ランサム、クリアンス・ブルックスらが提唱し、米国では『Fugitives』(逃亡者)『ケニヨン・レビュー』などの機関誌が刊行された。日本では「新批評」とされることもある。ナイス0

 

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