豊臣滅亡までの過程で質問があります。

Writer: admin Type: regalmach Date: 2019-01-11 00:00
豊臣滅亡までの過程で質問があります。家康は関ヶ原の戦いに勝利してから豊臣を滅ぼすまで大分時間がかかってますけど、いつ頃豊臣を滅ぼそうと決心したのですか?また関ヶ原から豊臣を滅ぼすまで10年以上ありますがその間は何をしていたのですか?共感した0###歴史は後から振り返って、事件を機に整備されます。徳川が日本の実権を握ったのは関ケ原だと思いますが、戦国の荒くれもの達をなだめすかすのに10年以上かけています。関ケ原の論功行賞、築城指令、縁組・人質、家のお取りつぶしなど、実にまめな権力基盤整備を行っています。大きなところでは1603年家康が征夷大将軍、1605年秀忠が継承し、公的な権力を継承豊臣恩顧大名の死亡を待つ₍1611年死亡の加藤清正が最大の大物₎豊臣家の財政基盤破壊工作₍豊国寺、方広寺建立提案₎その上で秀頼がバカで権威が無いなら、小大名として生かす道もあったが、小説などでは二条城会見₍1611年)で意外とまともな青年だと分かり、秀忠があまりに頼りなかったので、豊臣家をつぶすと決意したと小説ではよく書かれています。多分当たっているのではないかと思います。鎌倉幕府が1185年壇之浦から1219北条氏の執権政治開始、室町幕府が1336湊川の戦いから1392南北朝統一といったように、暗闘は1世代くらい続くものです。家康はその意味では自分の代で終わらせたというのは歴史的にもレアな成功者なのかなと思います。ナイス0
###豊臣家の多数派工作が、実を結びませんでしたが、帰趨がわかるまで、年月が掛かったのでは?豊臣秀吉は英雄ですから。あとの戦争は、戦艦大和の出撃のように、玉砕目的でしょう?ナイス0
###1601〜2年には金座、銀座を設け慶長金銀を鋳造しているわけで、つまり1603年の征夷大将軍就任より前です。だから徳川政権のスタート時点を1601年とする歴史観も存在します。また糸割符制度を整備したり、イギリス、オランダと通商し、秀吉時代に断絶した朝鮮との修好もおこなっております上に、奉書も徳川政権が発行している有様ですから、諸外国は徳川が正規の政権であると見做しています。国内においては東国の大名だけでなく豊臣恩顧の西国大名たちに誓詞を出させ、妻子を人質にしています。内政にしても主要街道の駅伝・宿場を整備しています。二条城での謁見で秀頼が参上したように、官位・官職においても秀頼より徳川宗家が上であり、秀忠に将軍位も譲っていますだからもう、実質的に豊臣の天下は終わっているのであって、秀頼が臣従していれば、適当なところに領地替えしたら終了です。現在は方広寺鐘名事件は、意外と豊臣が本気で事件を起こし、それに徳川が当然の反応をしたと見立てる向きが強くなって来ている印象です。だから「大坂の陣直前まで」という回答が既についているわけです。>いつ頃豊臣を滅ぼそうと決心したのですか?あと、こんなのに1か0かの二元論を求めても意味ないですよ。情勢に合わせて和戦両面で臨むのが当然だからです。ネットでまき散らされている稚拙な「アメリカは陰謀で日本に戦争を仕掛けさせた」の類と同じで、そんな単純な因果で歴史や社会が存在するはずがなく、複雑な連鎖の結果が歴史・社会ですから。ナイス0
###・いつ頃豊臣を滅ぼそうと決心したのですか?いろんな人がいろんな説を挙げており、絶対的な正解は家康本人にしか分からないと思います。私個人は結構大坂の陣直前までは滅ぼさずに臣従させるつもりだったと思います。根拠はありませんが直前の折衝でも豊臣が妥協すれば許していた可能性はあるように思います。・また関ヶ原から豊臣を滅ぼすまで10年以上ありますがその間は何をしていたのですか?私個人は大坂の陣直前まで臣従させたかったと思っていますから、大坂攻めの準備をしつつも豊臣方の態度の軟化を待っていたと思います。もう攻めても豊臣恩顧の大名も裏切らない、と自信を持てたタイミングがあのタイミングだった気がします。ナイス0
###滅ぼそうとしても、口実がないのに攻めるわけにはいきません。なので、豊臣家を滅ぼす機会をずっと伺っていたのです。ナイス0

 

TAG